ヒロシマを繰り返すな(2025/5/7)
被爆者のAさんが亡くなられた。94歳であった。被爆者手帳の取得申請の件で私とも親交があった方で、大正、昭和、平成と波乱万丈な人生を送りながらも絶えず微笑みを絶やさない優しい方であった。私のメモの中からその生きざまの一端を紹介する。
「私は、昭和19年3月3日、ニューブリン島ラバールより帰国し、即日、衛生兵長として、広島陸軍病院に配属されました。
収容する患者が多くなったので、昭和20年8月はじめより、島根県大田町の中学校と女学校をかりて病人を入れようということで病院作りに出かけていました。」
「8月7日広島陸軍病院江波分院から至急の連絡が来て、8月6日に広島で大きな爆弾が落ちた、広島市内は全滅だと、聞きました。
江波に広島陸軍病院の分院があり、被爆した患者を収容していたが、人手が足りず自分たちにも召集がかかり、8月8日に汽車をしたてて芸備線で広島に帰って来ましたが、矢賀までしか入れませんでした。矢賀の小学校には、数え切れない人数の患者を収容していました。」
「8月9日、とにかくできるだけ大田に連れて行こうということで汽車で何度か往復し、およそ300名ぐらいを大田に連れて行きました。男の兵隊たちもいたが女学生など民間の人が多かった。女学校、中学校の講堂が一杯になりました。」
「その日から大田町の中学校と女学校を広島陸軍病院大田分院とし、8月下旬に玉造分院に転院し、除隊になる10月末まで被爆した患者の看護に従事しました。」
「被爆した患者は、髪の毛が抜け、高熱が出、耳から出血し、腕の皮がずり剥け、ついには耳の中に蛆がわき、手のほどこしようがありませんでした。水をあげること蛆を取ってあげることぐらいしか出来ませんでした。大田分院には、4~5人の方が消息を訪ねて来られました。この分院で100人近くの人は亡くなりました。死体は山積みにしました。」
このメモから戦争の悲惨さ、被爆の惨状、必死の救援活動の実態をうかがい知ることができるであろう。
8・6ヒロシマを繰り返すな。戦争を繰り返すな。
Aさんの訃報を受けて、心から哀悼の意を表します。94歳という長い人生を全うされたAさんは、被爆者手帳の取得申請の際にも親しく関わらせていただいた方でした。その生き様から学ぶことは多く、Aさんが語った戦争の経験を通して、戦争の悲惨さ、被爆の惨状、そして必死の救援活動に従事した姿勢を振り返り、改めて「戦争を繰り返すな」「8・6ヒロシマを繰り返すな」といった強いメッセージを感じ取ることができます。
Aさんの言葉の一部を以下にご紹介いたします。
「私は、昭和19年3月3日、ニューブリン島ラバールより帰国し、即日、衛生兵長として広島陸軍病院に配属されました。収容する患者が多くなったので、昭和20年8月はじめより、島根県大田町の中学校と女学校を借りて病人を入れようということで病院作りに出かけていました。」
「8月7日、広島陸軍病院江波分院から至急の連絡が来て、8月6日に広島で大きな爆弾が落ちた、広島市内は全滅だと聞きました。江波に広島陸軍病院の分院があり、被爆した患者を収容していたが、人手が足りず、自分たちにも召集がかかり、8月8日に汽車をしたてて芸備線で広島に帰って来ましたが、矢賀までしか入れませんでした。矢賀の小学校には、数え切れない人数の患者を収容していました。」
「8月9日、とにかくできるだけ大田に連れて行こうということで汽車で何度か往復し、およそ300名ぐらいを大田に連れて行きました。男の兵隊たちもいたが、女学生など民間の人が多かった。女学校、中学校の講堂が一杯になりました。」
「その日から大田町の中学校と女学校を広島陸軍病院大田分院とし、8月下旬に玉造分院に転院し、除隊になる10月末まで被爆した患者の看護に従事しました。」
「被爆した患者は、髪の毛が抜け、高熱が出、耳から出血し、腕の皮がずり剥け、ついには耳の中に蛆がわき、手のほどこしようがありませんでした。水をあげること、蛆を取ってあげることぐらいしか出来ませんでした。大田分院には、4~5人の方が消息を訪ねて来られました。この分院で100人近くの人は亡くなりました。死体は山積みにしました。」
大江健三郎氏の「ヒロシマ・ノート」に感銘を受けて広島に来て55年が経つ。これらの言葉からは、戦争と被爆の実態、そしてその中での必死の努力と無力感が伝わってきます。Aさんはその後も戦後を生き抜き、常に微笑みを絶やさなかった優しい方でした。こうした生き様に触れることで、私たちは歴史の重みとその悲劇を決して忘れてはならないという責任を感じざるを得ません。
